サッカーコラム|福島正秀
















翻訳指令

最新フォーメーション システムを調べよ


第4


工藤監督の指令

私は早稲田学院高等学校のコーチ・監督をやっていていたが、当時、早稲田大学蹴球部の監督をしておられた工藤孝一監督の授業を取り、2限続けて出ていた。彼はベルリンの奇跡を成し遂げた日本代表チームのコーチである。

そのため、工藤監督とは、当然顔見知りになり、話もするようになった。
1年生も最期になった頃、工藤監督と安田一男コーチに呼び出され、工藤監督にこう告げられた。

「早稲田に4バックを採りたいのだが、学院で研究してみてはくれないか?」。
これに続いて、安田コーチは、「資料などは貸すから」と。彼は学院の先輩である。

1964年の初冬のことである。

監督の指令が意味することは次のようなものだと理解した。
1つ、当時、早稲田大学蹴球部は、日本を代表するチームであり、一番強くて一番面白いサッカーをする。
2つ目に、そのチームが未消化の内容の試合を行い、負ける訳にはいかない。

唯の大学生にとっては身に余る依頼ではあったのだが、ぜひやらせて下さいと、お引き受けしてしまった。
しかし、直ぐに障害にぶつかった。その時分、サッカーの指導書というものが日本には一冊もなかったのである。

輸入本との遭遇

第一、その時に行われていたサッカーのフォーメーションシステムは、あのベルリンオリンピックに時のWMシステムが、そのままずっと採用されてきたのである。つまり、1936年から1964年まで!

だが、目蓋の奥には、東京オリンピックに出場した日本を除く全チームが、4-2-4システムを採用していた試合がある。

日本はというと、ドイツからコーチとして招聘されたデッドマール・クラーマーの判断で、鎌田薫選手をスイーパーとした、1-4-2-3だった。日本では4-2-4は無理だと。

その判断は正しかった。日本はアルゼンチンに、3対2で勝ち、ガーナとは引き分け、決勝トーナメントに進出した。

そこで、勉強していた経済学書は放り出して、銀座の丸善、イエナという洋書店に通って、英国の本を買いまくった。

そして、いずれも1966年に出版された二冊を買い得た時には、涙が出た。さらに借りていた一冊も。

Soccer Coaching the Modern Way』 Eric Batty
Understanding Soccer Tactic』 Conrad Lodziak
Soccer Tactic a New Appraisal』 Bernard Joy


ようやく概要が把握できて作業に掛かる。

驚愕すべきは、何故に訳本が出なかったのか。
その本を精読した後、安田一男氏に訊いた。
「こんな素晴らしい本がなぜ訳されなかったんですかね?」
「あるお金持ちが、翻訳権を買ってしまい、訳さずに温めているからさ」と。







福島正秀 FUKUSHIMA Masahide


元早稲田大学高等学院サッカー部元監督
現在、同サッカー部部長。同校教諭、早稲田大学講師。
豊臣秀吉を支えた側近、戦国大名福島正則公直系の13代目子孫。
軍師の血を引き、サッカーの戦術戦略研究に日々、余念がない。







ベルリンの奇跡

1936年のベルリンオリンピックでは、佐野理平、堀江忠男、立原元夫、川本泰三、加茂健、加茂正五、控えに鈴木保男、笹野積次、西邑昌一など、代表選手の多くが早稲田ア式蹴球部から選出された。その関係で、早稲田大学ア式蹴球部工藤孝一監督もコーチとして帯同している。

工藤孝一監督

1936年のベルリンオリンピックでは、代表選手の多くが早稲田ア式蹴球部から選出された。工藤監督もコーチとして帯同した。1952年、早稲田大学蹴球部を率い、川淵三郎釜本邦茂松本育夫宮本征勝森孝慈など、現代日本サッカーの屋台骨を支える人物らを輩出する。
1966年に監督を引退、1971年永眠。葬儀は早稲田大学ア式蹴球部葬として東伏見グラウンドで執り行われた。
筆者(写真)がその場所に立つ。後ろのセンターサークルに棺が置かれた。