サッカーコラム|福島正秀
















工藤孝一監督

「ベルリンの奇跡」日本代表コーチ



第5


恩師

前回、紹介した工藤孝一監督は、日本代表監督まで務め上げた人だが、何と言っても、1936年、日本代表コーチとしてベルリンオリンピックに出場し、「ベルリンの奇跡」を成し遂げた活躍が華々しい。1942年には日本代表監督に就任、その後、従軍。

復員後は、郷里岩手で、岩手県サッカー協会の設立に関わり、八重樫茂生を育てるなどし、1952年に再び上京、早稲田大学ア式蹴球部を率いることになる。

彼の指導を受けた学生には、川淵三郎さんや松本育夫さん、宮本征勝さん、森孝慈さんなど、多士済々。つまり、彼は、現在の日本サッカー界の重責を担う数々の人たちを育てた名伯楽ということになるのである。

彼は、東伏見グラウンドとは西武新宿線の反対側にある工藤薬局を薬剤師の奥さんに任せ、サッカー三昧だった。個人的に話をすると本当に優しい人であったが、グラウンドでは「鬼」となって厳しい人だった。

1966年に監督職を引退、1971年にお亡くなりになるまでサッカーに生きた人であった。

ア式蹴球部葬

私は名伯楽の葬儀をよく覚えている。

普通なら、当時は自宅で葬儀を行い、そこから霊柩車で火葬場に向かうのが通例だったが、棺はかつての選手たちによって代わるがわる担がれ、踏切を渡り、グラウンドの真ん中でさらに法要を受けてから霊柩車に乗せられたのである。私も、数十メートル担がせてもらった。

名監督の大往生とあって、テレビなどの報道陣も来ていたが、TBSだったろうか、女性のアナウンサーが、釜本邦茂さんに聞いた。
「工藤監督とは、あなたにとってどういう方だったんですか?」
すると、彼は、
「一度でいいから、褒めて欲しかったです」
と涙ながらに答えていた。

周囲もおそらく報道を見た人も、意外な答えに驚いたろうが、日本一、不世出のストライカー、メキシコオリンピックの得点王釜本さんをして、そう言わしめた程、厳しい人だったのである。

厳しさと優しさと

好々爺にしか思えない晩年の工藤監督も、グラウンドでは容赦はない。
「お前ら、勝てねえんなら国に帰っちめえ!」
「石の地蔵みたいに経ってるんじゃない」

だが、ユーモアもあった。
「左のタッチラインから右までドリブルする奴があるか! 太平洋横断式ドリブルって言うのはお前のことだ!」

あるとき、藤枝東高校出身の大石選手のミスを指して、
「千葉と静岡の奴は雇うなっていう言葉がある!」
「それはどういう意味ですか? 教えてください」
「あんな気候風土のよいところで育った奴らはな、一円一銭でも余計に稼いでやろうとは思わないだろう? プレーの詰めが甘いんだよ」
と笑った。

「清水の次郎長以外には大人物は出ていないだろう?」
「なるほど、そうですね」

千人の人々に看取られての他界となった。





福島正秀 FUKUSHIMA Masahide


元早稲田大学高等学院サッカー部元監督
現在、同サッカー部部長。同校教諭、早稲田大学講師。
豊臣秀吉を支えた側近、戦国大名福島正則公直系の13代目子孫。
軍師の血を引き、サッカーの戦術戦略研究に日々、余念がない。