自分がやりたいことを選ぶ、自分がしたいことをする
それを可能する国アルゼンチンを愛して20年
数多くのサッカー選手を通訳してきた相川知子氏に
彼女自身のアルゼンチンドリームについて訊いた
ブエノスアイレスに来て何年になりますか。
1991年2月からですから19年になります。
最初の3年間はJICAの任務で海外開発青年といういわば‘お試し移住‘をしながら、日系社会に貢献するという活動でした。
在アルゼンチン日本語教育連合会というアルゼンチン国内にある日系社会の24校日本語学校を統括する団体で、JICAや大使館との折衝、各種資料や文書作成、教師研修会の企画、実行、運営、教材所有状況調査、日本語能力試験実施、教師研修会の実施など、中学生から高校生くらいの日系、非日系の学生たちを対象に授業をしていました。
移住された経緯について教えてください。
アルゼンチンに移住したのは、このJICAのプログラムで永住ビザをいただいたからです。
もともと、大学時代スペイン学科ラテンアメリカ諸地域研究を専攻していたので、もっとスペイン語を知りたいという希望がありました。でも、留学などは金銭面で、また実際上、不可能でした。
学生時代にメキシコ政府奨学生試験を受け、最終の20人まで残ったのですが、選考メンバー10人には残ることができませんでした。そこで、親も心配していることもあり、何とか公的プログラムで後ろ盾付でどこかの国へ行き、最終的に勉強をしたいと思っていました。
JICAの任期終了前に外国語大学で日本語講座がはじめて単位を与える科目としてできたにもかかわらず教師不足であったので、それに応募し、働き始めていました。そのため、そちらの推薦も得られ、任期終了後、言語科学専攻の大学院に入学することができました。
また任期終了直後に、通訳の職を得ることができ、とりあえず食べることができるめどができました。
やはりサッカーと結び付きのある仕事が多いようですね。
マラドーナの国ですから。
記憶に残っているもの一番はマラドーナの通訳ですね。
それからアルゼンチンサッカーの日常を伝える物書きの仕事、ときどき日本のラジオやテレビでサッカ―を伝える役割として出演したりしています。日韓ワールドカップのときにはアルゼンチンが敗退するまではその記事の翻訳などをしていました。
最近は「地球アゴラ」(NHK)でマラドーナを擁護する人間として出演しました。マラドーナ教の紹介とか(笑)。
また、今回は、なぜかアルゼンチンの会社がワールドカップ開催地の南アフリカに関する資料の翻訳を依頼してきています。スペイン語、フランス語など各国語で、その中に私も日本語で入れてもらっています。
特別サッカー狂という訳ではないのですが、大学のときに、サッカーのマネージャーやっていたため、基本的なルールも一通り分かるのが役に立っていますね。
通訳されたサッカー選手で印象に残る選手は。
やはりマラドーナサポーターの私としてはマラドーナが一番ですけれども、パラグアイのチラベルト、それから今代表のベロン選手へのインタビューも思い出深いですね。
そうそう、現在チリの代表監督であるマルセロ・ビエルサも素晴らしい方ですね。マスコミ嫌いでね。インタビューするなら来るな、アミーガ(友人)としてなら、何でも話ししようと言われます。
マラドーナとの思い出は。
20022年日韓ワールドカップでマラドーナ来日の通訳コーディネーションが印象に残っています。
通訳やコーディネーションは基本的に守秘義務がありますから、仕事の具体的な中身に関してはあまり詳細にお話しすることができないのですが、同行通訳したこともちろん、実際には先に行っていろいろ受け入れの準備をするんです。後始末もね。それが一番大変なんです。
実は通訳自体の仕事は簡単になっていて、それ以上に企画やその実行準備が一番やっかいで、交渉など自分が相手にしたことのない人や分野を調整するので、結局どういう風にしてやるのか手探りですから。
まして、その時にマラドーナはスポーツ文化親善大使として来日しましたから、そういうカテゴリーなどの説明も相手に分かってもらうのが大変です。
日本ではスポーツと文化って一緒でないものですが、アルゼンチンではスポーツと文化は同じくくりです。日本向けの書類作りなどもいろいろ考える必要がありましたが、マラドーナさんは楽しい方で、とてもいい方で、助かりました。
マラドーナとのエピソードは。
決勝戦が行われた横浜スタジアムでのことです。当日、言葉の問題などもあり、私しかハンバーガーなどの買出しに行けるスタッフがいなくて、行って戻ってきましたら、「マラドーナがいる」ってことになり、人が波のように押し寄せてきてしまいました。すると、セキュリティ担当官が「TOMOKO伏せろ」って言うので、とっさにその姿勢をとりました。
本当に怖かった。人ってあんな風に力を持つものか、と思いましたね。あれじゃ、マラドーナもイライラするのが当たり前ですね。でもそのときディエゴがもちろんスペイン語なんですが「皆さん、押さないでくださいよ、それに大変彼女は妊娠しているんですからね!」というジョークを飛ばしたんですね。妊婦だから気を遣ってって!もちろん、妊娠していなかったんですが、彼なりの冗談でその場をなごましてくれて、私も緊張感が一気に吹き飛びました。
テレビ番組のコーディネーションもされているとか。
日本からの番組やタレントさんにはもう疎くなっていて、それも3年ぐらい経つと当たり前になるのですが、「世界ふしぎ発見!」(TBS)の番組のコーディネーションもさせていただいています。
こちらの企画が通ることがあり、とてもいい番組作りに関わっているという実感があります。中でも番組の1000回記念として南極取材が実現したことがとてもうれしかったですね。
アルゼンチンの南極局とかかわって、国の南極遠征に同行し、軍関係の施設や人々に同行取材したのですが、遠征以上に準備交渉が大変でした。これ以上行けないという極地まで行きそうでしたが、それ以上に行けたという達成感がものすごいものでしたね。
日本文化の交流も手掛けていますね。
最近ですが、アルゼンチン日本文学祭を開催しました。アルゼンチンの建国200年と重ねてブエノスアイレス文化省の全面的協力を得ることができたのです。
5月大通りという古い、これ以上ない中心地に私たちの「FESTIVAL DE ARTE JAPONES」のバナーフラッグが掲げられた時には感無量でしたが、それをはずすときは本当に悲しかったです。
毎日、大勢の人が「和の空間」を楽しんでくださいました。今まで日本文化と関係なかった人、また日本の芸術に触れたかったけれども機会がなかった人が来訪してくださりとても素晴らしいことでした。
また日本語を学ぶ学生やスペイン語を学ぶ学生の交流と共同作業も実現し、いいイベントだったと思います。
通訳ではどのようなことを大切にしていますか。
文字通りの通訳にならないように気をつかっています。
実際、人間は話す言葉ばかりが言いたいことではないんです。もちろん、言葉にされたことしか通訳できないんですが(笑)、それでも言いたいこと、伝えたいことを理解して文字どおり通訳するのと、そうじゃないのでは違います。
最初は私は通訳する前にその方と世間話というか、自己紹介や、質問をするんです。そうするとどういう言い方で話す人なのか、分かってきますから、そういうコツをつかみます。
また今回の仕事で何をしたいか目的によって判断するんです。その目的に合わない表現、言動したら、こちらから大丈夫ですか、と文化的バックグランドなど確認することもあります。
また時にはスピーカーの人もいい間違いをします。それをケースバイケースで確認しないで間違った部分を訂正して訳すのと、そのとき本当に確認しなければならないことなのかを判断しなければなりません。
通訳を16年もやっているとだいたいことが分かってしまうのですが、それでも馴れでやってしまわないで、そのお仕事一回きりという認識が大切だと思いますね。同じ人がいつもアルゼンチンに来るなんてなかなか珍しいことですから。
その瞬間瞬間を大切にしながら、その場面場面を切り抜けるのは、本当は通訳能力以外の問題ですね。
コーディネーションという仕事はどのようなものですか。
コーディネーションというと、日本語では調整役なんですが、実際 当地では基本的に一番偉いんです(笑)。
でも、一番偉くて一番何でもやらなければならないので、ちょっと割りに合わない?んですけれどもね。当地では仕事の使命を達成するには何でもやらなければなりません。
しかしながら何だか、日本からは言葉ができる小間使いと勘違いされていることも多いんですが、基本は現地でお仕事が快適に実行できるためのパートナーなので、うまく使って欲しいところですね。
メディアのコーディネーションでは具体的にどのようなことを。
テレビのコーディネーションは国によって、その人によって違うんでしょうが、私の場合は何でも行います。受け入れ前以前にこんなことおもしろいですよ、という企画ですね。売り込みと言いましょうか。
それ以上に、撮影隊が来ないことも最近多くて現地撮影で、自分がカメラマンにならなくてもレポーターや撮影ディレクターになってしまうことも増えてきましたので、逆にそれも考慮にいれて、応対ができますね。もう「通訳」さんというだけではなく、本当に何でもやるんです。
そして、実際にカメラが回りインタビューになると「通訳」の顔に戻るんですが、国際会議のときなどは疲れていたらだめだし、ある程度の休憩などわがまま言えるんですが、撮影の通訳はそうは言ってられません。
ただ、私のかかわっている番組は後で日本でテープを翻訳に回さなくてもいいらしく、コストよりも手間の関係で助かるらしいです。それに実際に現場で言っていることをそのまま通訳するのですから、生ですしね。
会議の同時通訳とは違いますね。
カメラが回っているときに通訳するときには、会議のようにすぐに訳出することをしてはいけないんです。必ず、インタビュアが話して一言呼吸いれてから訳しています。後で私が訳している場面はオンエアではカットされますから。
でも、この一呼吸が怖くて、最初は、すぐに訳してはだめと言い聞かせているんですが、実は忘れるんです。通訳って短期記憶能力を煩雑に使うので、一瞬でもとまると忘れるんですよ。ぱああと頭が真っ白になるんです。本当に単純なことを言っていてもね。
それは、インタビューされている現地人が話しているときも同様でそれから、相槌も私が話しているのが聞こえてしまうので、入れることができなくて、現地の人には怪訝な顔をされるんです。
最近は声を出さずにうなずく、表情をこめて、わかっているからどんどん話してとうながす術を覚えたんです。だから、結局忘れないように、ためこんで訳出することができるように訓練されました。実際、通訳するだけなら、何でも簡単なんですよ。
ビジネスのコーディネーションもされていますね。
メディアコーディネーションとビジネスコーディネーションの違いは、やはり目的が違います。
ただし、何のジャンルの仕事でも目的が分かっているのとそうじゃないのではやりやすさも変わってきます。
私としては、何がしたいのか、何が可能なのか、その橋渡しをコーディネーションするだけで基本動作は同じですね。アルゼンチンにわざわざいらっしゃる目的を達成するために、お手伝いするだけです。
企業からの通訳の需要はいかがでしょうか。
日系企業の現地コーディネータという仕事はないですね。
日系企業は日本からの派遣社員と現地社員とでなっていますから、日本から偉い方がいらっしゃるときに、通訳、翻訳を別に依頼されるだけです。
実際、そういうレセプション通訳というのも華やかなのですが、常に注目されている要人の方と一緒にいるときなどはちょっと緊張しますね。でも、内容的には重要なお仕事ではありますから、気を引き締めてやらせていただいています。そして、いつも立派な方ばかりなので人生の勉強にもなります。
たとえばトヨタの会長の通訳をお受けしたときですが、この方は本当に素晴らしいと思ったのは、スピーチの内容や人々への対応以上に、「あなたも疲れたでしょうから、私はもう休みます、おいしいもの食べていってくださいね」と通訳の私に気を遣っていただいたことです。通訳は通訳として扱われるのが多いのですが、‘人間‘として扱ってもらえました(笑)。
他にもコカコーラの役員の方がいらっしゃったときは、何がどう、っていうわけではないんですが、本当にその方のお気遣い自身が毎日身にしんでうれしく楽しくお仕事させていただけました。トップに立つってこんなことなんだな、と刺激になりますね。
サッカー留学のお手伝いもされているとか。
サッカー留学はいいんですが、金銭目的で留学させる、っていうのは嫌いですね。もちろん費用がかかることはいただきますが、やはり本人の明確な目的意識が必要ですし、それから準備などの段階を踏んでいないとお手伝いするのにも無理なことが多いです。
基本的に本人次第ですし、最初から‘日本のマラドーナ‘的感覚で来られても困ります。有名なチームや都心ではないと行きたくない、などというのもね。
アルゼンチンにもサッカー選手になりたい若者は大勢います。狭き門ですから、ウルグアイやパラグアイで活躍している選手も、アルゼンチンでは無名だったなんてよくある話です。サッカー王国ですからね。
言葉はできない、生活面も自立できていない。それでサッカーだけでやっていけるかというと話が違いますね。もちろんサッカーができない人も多いんですけれどもね。
またサッカーには健全な若者を育成するという社会的目的がありますから、サッカーしたい、っていうだけでしたら、コーディネーションのお仕事ではやれないんです。じゃあ、パレルモ公園にいって、やっているグループと遊んだらいい。週末に一度ぐらいは連れて行くことはできますよ。
なぜアルゼンチンではサッカーに熱狂するのでしょう。
なぜサッカーに熱狂するのか、っていうのはアルゼンチンでは変な質問ですね。サッカー=熱狂なんですよ。もう血の中、DNIの中に組み込まれているんではないでしょうか。
こちらではサポーターといえば、先祖代々、まあ、今年建国200年の若い年ですから、せいぜいおじいさんの代ですが、そのときから、このチームのファンと決まっているんです。男の子が産まれたらボールをプレゼントする、またひいきチームのユニフォームや帽子をお父さん方、またお母さん方のおじさんなどが戦うんです。この子はこちらのチームのファンにする、って。もう子供のときからよちよち歩きで公園でドリブルしていますから、土台が全く違うんです。
もっとも野球は経済的に豊かでないとできません。ミットもいるし、バットもも高値ですし。サッカーっボール一つで最大22人が遊べるんですから経済的なんです。ボールがなかったら、紙を丸めたり、雑巾を丸めたものを蹴っていますからね。
要するに、アルゼンチンではサッカーは文化なのです。
あなたにとって「アルゼンチン」とは。
アルゼンチンはもう私の国ですね。
祖国は日本ですけれども、郷土愛を考えればアルゼンチン、ブエノスアイレスです。
今は家族ができましたけれども、その前からいろいろな問題が毎日起きて嫌になることも多いのです。アルゼンチン人にさえ日常スムーズにいかない事が多い場所ですけれども、愛着がでてきますね。
日本から来た方がアルゼンチンのことを悪くいうと擁護しますし、一体この人に好きになってもらうにはどうしたらいいのかと考えます。
だいたいアルゼンチンを好きになるって、日本人の頭の中の選択肢にはなさそうですね。日本では何でもその傾向が強いように思います。選択肢から選ぶんです。
しかし、そうじゃないことをこの国でまたここで知り合った人に教わりました。自分がやりたいことを選ぶ、自分がしたいことをする、そして、それが可能である国だと。
よく「アルゼンチンドリーム」という言葉を使われますね。
よくアメリカンドリームじゃないけれども、アルゼンチンドリームなんですよ。だから、私も私と話に来る人にあなたは一体何がしたいの、と問いかけるんです。そうすると、考え込まれますよ。まずはそれを考える、考えられる場所に来たのですからね。
私もまた日本にそのまま住んでいたらそんなこと考えないで過ごしていましたね。その方が幸せだったかもしれないけれども、一度、自分でやりたい!と思ったことが実現するのが分かると、もう日本には帰れないですね。
きっと日本では翻訳ぐらいはできたでしょうが通訳は無理だったでしょうね。本当は私は引っ込み事案だったんです。初対面の人とは話しすらできなくて。体も弱くてね。
だから、本当に今自分が通訳やって、人と同じように話しができて、そして、またどこへでも行ってしまうなんて、昔の私からしたら、全く信じられません。アルゼンチンに来なかったら今の私はありえませんね。
本当にこの国に、この国の人に感謝しているし、それをまた恩返したい気持ちでいっぱいです。
一方、母国としての日本、母国語としての日本語をどのように考えていますか。
日本はもちろん好きですし、いつも日本のことをアルゼンチンの人に紹介しています。
アルゼンチン人日本語も教えていますしね。これもライフワークになっています。しかしそれは簡単な日本語ですので、やはりいつも通訳や翻訳をしています。自分自身で書き物をしないと忘れてしまいますから。
またいつも活字を読んでいます。こんな風にインタビューされるときも重要ですね。あれ、なんていうんだっけ、ということならましなんです。多くのことを完全に忘れていますから。
少なくとも、通訳や翻訳、コーディネーション、ライターをしているから、まだ日本語を覚えているし、使うし、それから勉強することができるのではないかと思います。
ただ、もう何語という感覚がなくなってきてしまっているし、多くの経験や学習がスペイン語なので、日本語で言えないというより、いいにくいことが多いですね。
ただ、もともと日本では無口で、自分の思ったことがいえませんでしたから、それと同じことが日本語ではよく起こります。こんな風に言葉を仕事にすることがなかったら、もっと逆に日本語を使わなかったかもしれません。
つづく
相川知子 あいかわともこ AIKAWA Tomoko
通訳、翻訳、ライター、アルゼンチン-日本関係プロジェクトコーディネーター、撮影コーディネーター、言語学研究者
広島県出身、現在、アルゼンチン共和国・ブエノスアイレスに在住。
日本でスペイン学科ラテンアメリカ諸地域研究専攻。
1991年公的機関プログラムで日本語教師としてブエノスアイレスへ。
ブエノスアイレス市立外国語大学日本語教諭18年。現地で大学院(言語科学専攻)に。社会言語学の言語変容テーマで権威のベアトリス ラバンデラ博士の批評的ディスコース分析ゼミ最後の弟子。言語学学会国際会議で発表歴9年。
1998 年日亜修好100周年日亜友好議員連盟通訳、2008年日亜修好110年記念日本芸術祭、2010年アルゼンチン建国200年記念日本文学祭コーディネーター、1999年、2000年、広島県国際交流事業アルゼンチン代表引率、TBS「世界ふしぎ発見!」NHK「地球アゴラ」などテレビ撮影コーディネーターとして南アメリカ南部(アルゼンチン、チリ、パラグアイ、ウルグアイ)、南極まで出張。
1998年、最初の日本語によるアルゼンチンHP「素顔のブエノスアイレス」を作成。雑誌、新聞、WEB記事、現地邦字新聞(日本語+スペイン語)などに執筆。
NOPフンダシオン サダコ主宰による広島の平和と、環境、友情を育てるプロジェクトを実行中。
執筆媒体は次のとおり。
「主観的アルゼンチン・ブエノスアイレス事情」
いまどき報告 アルゼンチン編
中国新聞世界の街角から
同新聞海外レポート
アルゼンチン広島県人会幹事 AMIGOS de los POLOS OPUESTOS
interviewed by WASEDABOOK